走って、パパして、仕事して。ときどき夫。。

45歳から走り始めました。フルもウルトラもトレイルも思いっきり楽しみたい!

ギャンブル狂時代②

今朝は走った。

マフェトンジョグ。

今日から最大心拍数の設定を128にした。

 

12.68km 1.25.01 (6.42/km)

狭山池部分

5~8km

6.16 6.18 6.14 6.15

 

先月350km近く走って、

3週目はVirtual UTMFで160km以上距離を踏んだ。

故障の危険を感じていたので最後の週は10kmしか走らなかった。

そして5月、

1日 休足

2日 5.1km

3日 20.2km D+1401m 比叡山国際トレイル試走前半部分

 

筋肉痛も出たけどひどくはなかった。

4日は早朝より息子と釣り

5日は朝から雨で休足

そして今日。

 

筋肉痛もない。

痛いところもない。

両足首に少しだけ違和感。

ガーミンのコンディションは-2だったけど、

先月の走り込みによる故障は回避できた感じだ。

 

ここからまた積み上げて行けたらと思う。

まあ今月はマフェトンジョグオンリーとなるのだけど。

明日からも雨でなければ出来るだけ毎日走る。

 

 

ギャンブル狂時代②

 

ギャンブル狂時代①

昨日の続き。

 

私が初めてパチンコを打ったのは保育園の時(笑)

今と違って子供達が親に連れられて出入りしていた。

 

保育園の年長から小学3年の1学期まで、

愛知県岡崎市吹矢町というところに住んでいた。

東岡崎駅から東側へ徒歩10分ほどか。

ボロアパート。

今思い出すと貧乏だったな~。。

6帖と3帖、キッチンの直間。

風呂無、

トイレはアパートの外側に並んでいた。

一部屋に一つあったと思う。

もちろん水洗ではないボットントイレ。

そこに父と母、母の兄、私、妹、上の弟の6人で暮らしていた。

一番下はまだ生まれてなかった。

ようあんな狭いところでこれだけの人数で暮らしていたと思う(笑)

近所に沢山友達いたし、

虫とったりキャッチボールしたり友達の家でエロイ漫画見たり楽しい思い出しかない(笑)

 

風呂がないので銭湯へ行く。

アパートから東岡崎駅を通り過ぎてすぐのところに銭湯があった。

多分10~15分くらいで行けたのではないか。

銭湯の帰り道、

東岡崎駅のところにあるパチンコ屋へよく寄った思い出がある。

私は床に落ちている玉を拾って弾く。

拾って弾く。そんな記憶がある。

父親が勝った時なのか、

駅の周りに屋台がありそこでラーメンだかおでんだかを食べた。

野良犬や野良猫が来て父親がエサをあげていたと思う。

 

私の幼少期の記憶に東岡崎駅のパチンコ屋と屋台が強く残っている。

 

小学3年の途中で同じ岡崎市中園町というところへ引っ越した。

矢作川の近くだ。

そこで高校入学まで過ごし、

愛知県豊田市上郷町へ引越しをする。

この時父親が始めた商売が麻雀荘(笑)

自宅兼麻雀荘(笑)

 

中学校までの私は結構勉強ができた(笑)

一番二番の高校へは行けなかったけど、

クラスで私以外全員大学に進学するというくらいの進学校へ通っていた。

みんなが勉強する中、私は。。

家に帰りメンツが足りないと私も混ざって麻雀をしていた(笑)

高校生にしてやくざ屋さんの人達と麻雀をしてたわけだ。

させる親がどうかしてる(笑)

 

高校2年生になり友達とパチンコ屋へ行くようになった。

夏休みとか長期休みの時に1~2回の感じだったけど。

高校2年の夏休み、

出校日の帰りに友達と上はTシャツ、下は学生ズボンで煙草を吸いながらパチンコを打っていた(笑)

肩をトントンされ振り向くと。。。

 

ティーチャー(笑)

 

夏休み中に自宅謹慎となり毎日反省文を書いて制服を着て先生に提出してたような覚えがある。

 

お小遣いはなかったけど私は中学の頃からずっとアルバイトをしていた(高校の教科書などそのお金で買った←えらい! のか?(笑))ので小銭は持っていた。

それでもそのころ打ってたのは一般台、いわゆる羽根ものというやつ。

ゼロ戦とかだったかな? 記憶が定かでない。

 

私が本格的にパチンコをしだしたのは、

高校卒業して浪人して就職のために東京へ行ってからだ。

最初は横浜国大へ通っていた高校の同級生の部屋へ転がり込んだ。

最初は横浜の磯子区、その後埼玉県の北越谷に住むことになる。

時はバブル。

8社面接して1社だけ落ちた。

その1社は西ドイツ(その時は東西あった)で働くという会社だったけど英語が出来なかった私は書類審査で落ちた(笑)

ドイツ文学に憧れていて、トーマス・マンとかヘルマンヘッセだとか。。ドイツで働きてーと思って応募したのだ(笑)

受かるはずがない(笑)

 

7社の中で私が選んだのは先物取引の会社だった。

入社してしばらくして寮を借りてくれるということで北越谷へ行った。

同期で吉積さんという一つ年上だったけどいつも遊んでくれた方がいた。

その人と仕事帰りや休みの日にパチンコ屋へよく行った。

一発台というものを打っていたと思う。

今では考えられないけど1回当たれば15000円とか20000円とか出る台がその頃にはあった。

 

仕事はすぐに成果が出た。

バブル時代だ。

引越しして日本橋に住んだりした(オフィス街で住むようなところではないけど(笑))。

働きづくめで疲れ果て体調不良となり仕事をやめた。

 

しばらくして愛知県豊田市丸山町というところへ引っ越した。

フリーターをしてた。

バイトはいくらでもある。

色んな事をやった。

月収は25万くらい稼げた。

 

その後、アルバイトの中で一番楽しかったボウリング場へ就職した。

ここでも悪の出会いが(笑)

カニック担当(ボウリング場のピンの裏道に小部屋がありそこで機械トラブルが起きると直す人)のおっさんが私を悪の道へ誘う(笑)

暇さえあればパチンコに誘われた。

 

この頃も面白い台が沢山あった。

一番打ったのはアレジンとかダイナマイト。

ピピピとかいいながらアレジンは777とか333とか111とか3桁揃うと羽根が開き右打ち。

20連荘とか30連荘へたすると100連荘とかする10万、20万の世界だ。

ダイナマイトは7がくれば連荘が始まる。

当然負けもでかい。

 

そしてこの頃覚えたのがパチスロだ。

モーニングというのがあった。

一つの島の中に(列)1~2台予め当たりを仕込んでいる台がある。

愛知県のパチンコ屋は9時開店の店がほとんどで、

開店前に並び一目散にスロットの台を取りに行く。

当然、台に座って1000円でコインを買って回すのだけど、

私は前日に残しておいたコインを10枚ほどポケットに忍ばせて1台に1枚コインを入れて回す。

目押し(7などでかいし色がついているので慣れれば見えるようになる)で7を3つ揃える。

揃えば数回まわして当たらなければ換金。

まだ回されてない台を回したり、

他の人が取りこぼした台(目押しがへたくそだと入っているのに揃えれないことがある)を取ってまわる。

2~3台とれると30分くらいで1万円くらいにはなる。

あまりないけど連荘とかに突入すればそのまま打つ。

そうやって稼いだお金をパチンコ台へ貢ぐ(笑)

なんて愚かな(笑)

モーニングに関しては私たちのような連中がいたから、

どんどんとルールが厳格化していき私は三店舗でもう来るな! と言われて出入り禁止になった(笑)

 

今日も長くなった(笑)

つづく(笑)

 

ブログランキング。今何位?

↓応援ポチりお願いします.

にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ
にほんブログ村