昨日の世界陸上も見ごたえがあった。
やはりスポーツって素晴らしいよね。
今朝は10km走った。
いつもと同様7.30/kmペースくらいの超鈍足ジョグだけど。
ただね。
汗の量が一気に変わった。
昨夜は何カ月ぶりかにエアコンなしで寝れた。
まだまだ昼間は暑いけど、
季節は変わったね。
走るのも楽になればいいけど。
・・・
雑記ひらがな50音 か 蚕
最初に「か」が付く言葉で思いつくもの。
蟹
感動した話
韓国
関西弁
蚕
缶のフタ
蚕
私が幼少期に過ごした母親の実家には蚕がいた。
おカイコ様と呼んでいた。
ド田舎だ。
大きな家だった。
家の中には囲炉裏もあった。
家の横にはニワトリ小屋と蚕小屋。
その横に家業であった大工の作業場。
そこにトイレとお風呂がついていた。

夜中トイレへ行きたくなったら大変だ。
懐中電灯を持って家を出て、
ニワトリ小屋と蚕小屋の脇を通ってトイレへ行く。
真っ暗だし、
横には川が流れているし、
冬は雪深い。
トイレはもちろんおつりが貰えるボットン便所。
トイレの形もしておらず穴というか溝に板を2枚敷き、
1枚の板に片足づつ載せてしゃがむのだ。
紙は四角いごわごわした紙。
近くの(徒歩15分ほど)の生協に売っていた。
お風呂ももちろん五右衛門風呂。
薪をくべて炊く。
釜が熱くなるので底板の上に乗りお風呂へ入る。
私が小学生になったころ、
家の中にお風呂とおトイレがついた。
その頃には養蚕もやめて、
ニワトリだけは飼っていた。
卵を産まなくなったニワトリは捌かれるのだけど、
子供心に衝撃的なものだった。
でも美味しかった(笑)
蚕も食べた。
蚕について少し書いておくと、
蚕は自然界にはいない人間が作り上げた昆虫だ。
「クワコ」という蛾の幼虫を中国で数千年かけて効率よく絹糸を作り出すように品種改良を重ねた昆虫である。
人間の世話なしでは生きられない昆虫だ。
幼虫は桑の葉を食べる。
蚕はシルクを作り出してくれ、
海なしで雪深い田舎ではさなぎを食べることで貴重なたんぱく質を与えてくれる。
まさに「おカイコ様」なのだ。
餌になる桑の葉も栄養がある。
天ぷらにしてもらって食べた覚えがある。
桑原は災害や雷が落ちないと言われていて、
「くわばらくわばら」という呪文の語源にもなっている。
私も蚕のさなぎを何度も食べた。
あまり美味しいとは思わなかった。
噛むと苦味が出てくる。
その地方では昆虫食が一般的に存在する。
いなご、蜂の子やザザムシも食べた。
佃煮にすることが多く美味しくいただける。
あとよく鯉を食べた。
私の両親は貧乏をしており、
私や妹は夏休みや冬休みになるとずっとその家で過ごした。
幼児の私がさらに幼児の妹と二人で名古屋駅から特急しなのに乗る。
もちろん電車に乗るまではうちの両親がいる。
幼児二人で電車に乗って松本へ向かう。
あまり記憶はないが、
親切なおばちゃんが二人でいることにびっくりしてお菓子やらなんやらくれたのを覚えている。
松本駅につくとおばちゃんが迎えに来てくれている。
このおばちゃんは父親方の長男の奥さんだ。
いいおばちゃんだったけど、
私が小学6年生頃急逝した。
おばちゃんがまず松本市にある父親の実家に連れて行ってくれる。
文芸社という印刷屋をしていた。
そこで2~3日過ごし、
いとこのお兄ちゃんが運転して東筑摩郡の母親の実家に連れて行ってくれる。
今考えると、
私は幼少期、珠のようにかわいらしい子だった。
その私と妹が誘拐されなかったのは奇跡と言ってよい。
小川はスイカを冷やしたり洗濯をしたり生活に密着していた。
その小川をせき止めるように石を積み上げて、
その少し下流もせき止めて間の水をすくい魚を取ったりして遊んだ。
冬になると大きなつららが出来るをそれを折ったりして遊んだり、
雪がつもれば手作りのスキー板のようなものを履き遊んだ。
私と妹はそこの地域の学校に通っていたわけではないけど、
村の子供達と友達だった。
山へよく冒険に行った。
お盆や正月になると1件だけしかなかった店も1週間とか休む。
買い物も出来なかったし、
テレビのチャンネルも2つしかなかった(3つだったかも)。
ただ山があり、川があり、わくわくするものが沢山あったので何も退屈することはなかった。
そんな田舎だけど、
私にとっては思い出深い懐かしい家だ。
今現在、
そこの家の夫婦(5人兄弟の母の長男夫婦)はなくなり、
2人の子も家を出ている。
相続で母のとこにも手紙が来ていたけど、
私は母に放棄するように伝えた。
田舎の土地をもらっても苦労することしかない。
潰す前にもう一度その家の中を見たいなと思う。
ちなみにうちの両親はまだ元気だけど、
死んだらその村にある一族のお墓に入ると言っている。
私にとっては非常に不便だけど両親が望んでいるのでそうしようと思っている。
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